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私の俳句観

俳句はいくつかの言葉の組み合わせからなる。

  俳句その組み合わせは何かを定義する。

何かとは、「景色」「情景」「印象」「現象」のようなものである。

組み合わせとは シンセサイジング と言い換えるとわかりやすい。

ワードを部品として何かを「創作」することである、とも言える。

シンセサイジングと真逆の関係にあるのがアナライジングである。

アナライジングとは「分析」、すなわち「説明」である。

アナライジングの俳句はルール違反というわけではないが、

これでは面白くない。なぜなら、説明には広がり感がない。

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俳句とは、言葉のシンセサイジングによるところの、

「景色」「情景」「印象」「現象」の、作者の個性ある世界観の創作なのである。

深ければ深いほど、広ければ広いほど、強ければ強いほど、鮮烈な印象を発信する。

 

俳句は、二十四拍のリズムを持つ。俳句の普遍性はそのリズムにある。

リズムさえ整えば、日本語であれ英語であれ、それは俳句である、と言える。

 

二十四拍は 八八八の三つのフレーズからなる。

前段の八拍は五拍の有音拍と三拍の無音拍からなる。

通常、無音拍は有音拍の後尾に設ける。

中段の八拍は五拍の有音拍と一拍の無音拍からなる。

通常、無音拍は有音拍の先頭に設ける。

後段の八拍は五拍の有音拍と三拍の無音拍からなる。

無音拍は有音拍の先頭または後尾のいずれかに設ける

 

話が飛ぶが、フラメンコは通常、十二拍のリズムで構成される。

十二拍は、二 三 四 六 の公約数を持つことから、

多様で複雑な組み合わせを可能とする。

        例えば、代表的なリズ   三        三  二 二 二  も十二拍。

●を強拍〇を弱拍とすると ●〇〇●〇〇●〇●〇●〇

 の繰り返しとなる。

拍の強弱にかかわらず、

それぞれの拍を表裏の手拍子で打つと、

 実にフラメンコらしい躍動的なリズムとなる。

本論に戻して、

リズムとは俳句にとって普遍的な意味を持つ。

リズムの無音拍が、即ち「間」である。

短い俳句ではあるがその中に、

三 一 三 の無音拍の「間」を持つ。

この無音拍を除くと俳句が 五七五 と言われる所以である。

俳句にとって、五七五 が最重要な必要条件ではない。

最も重要なのは、

 総二十四拍のリズムに「間」を設けることで

 何をシンセサイズするか、である。

一つの俳句のどこにどのように「間」を入れるか、

それは作者と評者のそれぞれに委ねられる。

 

余談になるが、

 三三七拍子 という手拍子は

 三拍と無音一拍 三拍と無音一拍 七拍と無音一拍 の

 総 四四八 の十六拍である。

ここでも無音一拍が重要な意味を持つ。

本論に戻るが、

句会は「作者」と「評者」 即ち、「送り手」と「受け手」で構成する。

すべてのメンバーは同格である。この場に限って、

 縦割り関係はあってはならない。

送り手による俳句を一つの創作名詞としよう。

その名詞は刺激となって受け手に伝わる。

わかりやすく、言い換えれば、

送り手の一つの創作名詞が受け手の感性をノックする、である。

会のメンバーが十人であれば、

 ノックは九人九様に固有のインプレッションを発生させる。

受け手のインプレッションは言葉となって評となる。

創作と表の場、即ち句会である。

こっそりと一人で創作、これはこれで、

しかし、句会は作者と評者が織りなす世界を広げる場である。

その場は、創作にも評にも感性の研鑚の場でもある。

 

ノッキングによる打診は、

技術用語でインパルス応答と呼ばれる高度な普遍性でもって理論づけられている。

ノッキングによって受け手が反応する。

ある茶碗はその茶碗独特の音色を発する。

きつつきは音でもって枯れ枝に潜む虫を探す。

つい数十年前、医者は肺の様子を伺う。

蒸気機関車の車輪をハンマーの打音で異常の有無の確認。

句会は「人の感性のインパルス応答の遊び」なのである。

 

さて、俳句にとって「間」がどのような意味を持つかについて考えてみよう。

松尾芭蕉の傑作中の傑作

 閑さや 岩にしみいる 蝉の声

を例にするとわかりやすい。

 この句は

 しずかさやいわにしみいるせみのこえ

ではない。

 しずかさや。。。。いわにしみいる。。。せみのこえ

あるいは

 しずかさや。。。。いわにしみいるせみのこえ。。。

と読んでみよう。 「。」 は無音拍である。

適度に間を入れることで、雰囲気が変わる。

 「しずかさや」は静寂の空間をイメージさせる。

 おそらく、ではあるが、受け手によって

「しずかさや」をキーワードとする様々な記憶が潜在意識に浮き上がってくるであろう。

 次の「。。。」は、その潜在記憶を浮き上がらせるに必要なタイミングである。

四番目の「。」は歌でいうシンコペーションに相当し、

 次の「いわにしみいる」に弾みをつける。

最後の「。。。」は

後段の頭にある場合は中段と後段の間の「間」、

後段の後尾にある場合は余韻の「間」、である。

句によって、受け手によって、如何様にもアレンジできる。

「間」は、

「間」の前の言葉をキーワードとする記憶を潜在意識に誘い出すに要する時間、である。

「間」の後の言葉は潜在意識と結びついて、新たな意識や印象や認識の世界を生む。

ここが送り手にとっても受け手にとってもおもしろいところである。

句の内容はもちろんのこと、即興である句の評の内容も、

句会の場の盛り上がりを左右する。

 

続く

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