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間の分析

 (私の俳句観 カラードインパルス)

 

理想とする句が幾つかある。

 

閑かさや 岩にしみいる 蝉の声       芭蕉 (1689年)

 

朝顔に つるべ取られて もらい水     千代女(1703年)

 

いずれの句も、

作者の鋭い感性と情景の臨場感が伝わってくる。

三百年の時を経ても、新鮮そのもの。

世界に通じる、普遍性の高い風景の一瞬が見えてくる。

 

私の俳句の師匠は、

青海波主宰の斉藤梅子先生と主宰を支える田中博さんであった。

主宰からは、句の完成度と自句の評価の徹底追求の心構えを、

博さんからは、作句の理論を教わった。

言うまでもないが、

句会の仲間からは、大きな推進力をもらっている。

 

今生の 総ては水に 心太        田中博

 

ずば抜けて個性が強い。

俳句の技術としてまったく無駄がない。

着眼の感性と表現の技量は、

芭蕉の句会にも同席できる完成度、と私は思う。

 

良い句は、受け手の感性に強力なインパクトを与える。

そして、受け手それぞれの受け方が多様である。

一つの側面としてではあるが、

エンジニアリング風に表現すれば、句を

“カラード・インパルス”

とでも定義したいところである。

 

句は、一瞬にして、

受け手の記憶の奥深い所から、

多様なイメージ゙を誘い出し、

意識として浮かび上がらせる。

そういうものでなければならない。

 

キツツキの仲間は木の枝や幹をやたらにつつく。

それは餌探しのため。

くちばしを木にたたきつけることで、

返ってくる音から、

木の中に餌となる虫がいるかどうかを知る。

我々の生活の中でも、このような手法が自然に使われている。

 

茶碗にひびがある?

スイカが熟している?

機関車の車輪にひび割れが?

五十年ほど前までは、お医者さんが胸を指で打つ。

肺に空洞が?打診とは、相手に問いかけて、

その反応を確かめるための方法でもある。

 

目に見えないもの、それが何か、知りたいとき、

何らかの刺激を送り、

得られる反応によって、

相手方の何かを知る。

 

西洋文明は、古典、ともいえるほど以前に、

“インパルス応答”

という、

純粋で普遍性の高い概念と理論を見いだした。

句はインパルスに、

そして、句の鑑賞はインパルス応答に似ている。

 

俳句の場は、

句とその句の評、

即ち、

送り手と受け手の二つの世界の交わりからなる。

 

俳​句の会、即ち句会の場こそが、俳句の俳句たる世界。

送り手と受け手が醸し出す俳句独特の、

そのメンバーで、その時に、その場で、

しか得られない世界なのである。

 

純粋のインパルスは、

一瞬で無色であるだけに、その世界は無限に広い。

逆に、小説のように、長々とした文章では、

送り手と受け手の世界が接近する。

 

このような観点から、

俳句は短歌よりインパルスに近く、

短歌は俳句より小説に近い、、とも言える。

そして、

インパルスに近い句もあれば、

小説に近い句もある。

 

俳句の本質は、言葉の少なさにある。

 

色模様には個性があり、

個性が強すぎると作者の看板が表に出る。

強力な色模様で、なおかつ普遍性も高く、

この矛盾を乗り越えた句が選ばれて永く残る。

時代を超えて新鮮さが保たれる。

 

冗長性が極限まで省かれた平凡で力強い言葉、

その組み合わせ、その順序、その“間”

鮮やかな句には、それら総てが揃っている。

新鮮で広範な意味を秘めた強力なインパクトを持つ句、

これが理想の俳句である。

 

感性もさることながら、

死とも隣り合わせの行脚を通して出会った題材、

それを磨き上げ、完成させた芭蕉の句、

その中の傑作中の傑作、これを超えるのは至難である。

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